5月8日は、寛永寺に埋葬されている第4代将軍・家綱公の命日です。寛永寺では德川家のご参列の下、法要を行っています。
寛永寺は今でこそ德川家の菩提寺として知られていますが、もともとは江戸城の鬼門を封じる祈祷寺として創建されました。つまりご祈祷を専門に行うお寺だったのです。ところが創建から約半世紀後に、家綱公が寛永寺に埋葬するよう遺言しました。德川家の宗旨はもともと浄土宗だったことから、天台宗である寛永寺への埋葬の希望は、当時としても前例のない特殊なものです。それでも将軍の遺言であることから埋葬が行われ、それによって寛永寺は初めて德川家の菩提寺となったのでした。
では、家綱公はなぜ寛永寺に埋葬するよう遺言したのでしょうか。4代家綱公というと、どうも3代家光公と5代綱吉公という有名人に挟まれた方といった印象です。実は史料がないため本当の所はわかっていませんが、一説として言われていることをご紹介しましょう。
德川家は、家康公が寅年産まれ、2代将軍秀忠公が卯年産まれ、3代将軍家光公が辰年産まれでした。寅・卯・辰と順に来ています。そこでもともと天海大僧正を崇拝していた家光公が、巳年にお世継ぎが誕生するよう天海大僧正を頼ってご祈祷を依頼しました。
天海がご祈祷を終えてお戻りになったところ、弟子たちが言うには「男の子がお健やかにお生まれになることがわかりました!」と。(『東源伝』)
こうして巳年の1641年に本当に産まれたのが家綱公だったのです。天海大僧正は1643年に逝去されているので、家綱公と直接の面識はなかったことでしょう。しかし、家綱公の誕生により天海大僧正への尊敬がさらに篤くなった家光公から、お前は天海が授けてくれた子だよと常々言い聞かされていたのかもしれません。すると、天海大僧正が建立した寛永寺に埋葬してほしいと思ったのか、思わないのか……
あくまで歴史ロマンのお話ですので、実際の所は本当にわかりません。それでも想像の翼を広げてみるのは、実に楽しいものです。