2月のおはなし ~寛永寺 その⑧~

三代将軍德川家光公の遺言により、家光公の葬儀が寛永寺において執行されたところまで先月はおはなししましたので、今月はその続きからです。

家光公については、その御心情を察すれば、遺言の内容は当時の幕閣からしても、さほど驚愕するものではなかったであろうと推測できます。
なぜなら、家光公の権現様(家康公)と天海僧正に対する思いの深さは、幕府内でも周知の事実であったからです。
しかしその後、幕閣にも想定外だったであろうことが起こります。
四代将軍家綱公、五代将軍綱吉公と立て続けに、寛永寺で葬儀を行い廟所(お墓)も寬永寺に造立するべし。という遺言を残したのです。
これには本来の菩提寺である増上寺も穏やかではいられず、幕府に強く抗議を申し入れたそうです。
とは言え幕府も将軍の遺言を無視する訳にもいかず、こうして寛永寺に将軍の廟所が正式に造営され、祈祷寺と菩提寺の二つの役目を兼ねることとなったのです。
尚、これ以降は増上寺と寛永寺の双方の面子が立つよう、幕府が事前に調整を行ったうえで将軍の葬儀が執り行われるようになったそうです。

さて、寛永寺は将軍家菩提寺としての役目も有すようになり一段と格式が上がります。
特に将軍霊廟を管理する役目=別当(べっとう)=を持つ塔中寺院は、多額の手当てが幕府から支給され、それは有力旗本の石高に匹敵する程のものありました。
さらに将軍霊廟が出来たことにより、寛永寺には全国から諸大名が参詣(将軍のお墓参り)に来るようになるのですが、この墓参は幕府の公式行事ですので、石高や家格によって参詣の方法や順番なども明確に定められています。
よって、諸大名にとってはミスの許されない緊張の場であり、遅刻やトラブルなど、もっての外なのです。

折しも参勤交代が定着し、諸大名の江戸における生活が割合を増していたこともあり、有力大名はこぞって寛永寺山内に塔中寺院を寄進、又は既に存在する塔中を自家の江戸での菩提寺として定め、将軍霊廟参詣の待機所兼装束所にしました。
これにより山内の塔中寺院は最大で三十六にもなり、それぞれが大名家からの援助を受けて縁を深めると共に、参勤交代を終え地元に戻った人々の伝聞により、寛永寺は江戸の名所として一層知名度が増していったのです。

東叡山寛永寺 教化部