「上野の山で戦争があったんだよ」……先日、社会科見学に来た地元の小学生にそうお話したところ、驚きの声が上がりました。戦ったのは上野の山に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)と明治新政府軍。幕末の上野戦争は、寛永寺存亡の危機でありました。 彰義隊は、もともと第十五代将軍であった德川慶喜公を警護する目的で結成されたグループです。そのため、德川慶喜公がいらっしゃった「一橋徳川家の家臣団」が最初期のメンバーでした。一橋徳川家は徳川御三家に次ぐ格式を持ち、石高も10万石あった家柄ですが、実際は全国各地にある德川家の土地を足して10万石として計算していたため、特定の領地はありませんでした。ですから「地元の家臣団」も存在せず、まさに慶喜公のすぐ側にいた者が結成した「有志の会」として彰義隊は始まったのです。彰義隊としては新たな人材は喉から手が出るほど欲しかったことでしょう、幕末という時代もあり、一旗揚げたい浪人は多く存在しました。こうして彰義隊は人数がふくれあがってゆきました。 慶応4(1868)年4月11日、江戸城の無血開城が実施され、寛永寺内に謹慎していた慶喜公はご出身である茨城・水戸にお帰りになりました。彰義隊としては警護する対象がいなくなったのですから、隊としての役目が終わったことになります。実際に脱隊者もあったのですが、名を売りたい大部分は度重なる解散命令にも従わなかったのです。 こうした彰義隊を明治新政府軍は「幕府の正規軍」と位置づけ、討伐にかかりました。戦いはわずか半日で明治新政府軍が勝利したのですが、戦いの中で寛永寺の建物は次々に焼けて失われていきました。また寛永寺は彰義隊をかくまったとしてすべての境内地が没収され、土地の大部分が後に上野公園となったのです。寛永寺に戻ってきた境内地は最盛期のたった10分の1ほどでした。 上野戦争によって彰義隊は壊滅したのですが、一部の敗残兵は箱館戦争に向かう榎本武揚艦隊に合流しました。その際、あるフランス士官が片言で言葉をかけたそうです。 アナタ上野デ負ケマシタガ弱クアリマセン。来年三月帰リマス。ソノ時アナタ上野花見マス。 楽シミマスカ、酒ノミマスカ、喜ビマスカ。私思イマセン。アナタ涙出テマスアル。
ジュール・ブリュネ
今年は彰義隊の150回忌にあたります。戦いに敗れた彰義隊を、寛永寺では上野戦争が起きた5月15日に供養しています。