7月のおはなし ~寛永寺 その⑫~

前回に引き続き寛永寺の各お堂などを個別にご紹介していきます。

今回は不忍池辯天堂です。

不忍池辯天堂(しのばずのいけ べんてんどう)は、その名の通り辯才天(べんざいてん)※=弁財天とも を祀るお堂として、江戸時代初期の寛永年間に創建されました。
寛永寺を創建した天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。
これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、山内に建てるお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てた(=模倣した)ことを意味します。

その中で、天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうでん)が祀られた小さな島を竹生島(ちくぶじま)に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公の協力により島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。

また、琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するのに船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられ、今日でも天龍橋として続いています。
本尊は八臂(はっぴ=八本腕)の大辯才天で、慈覚大師作という伝承があります。
秘仏ですので普段はお前立をお祀りしておりますが、年に一度、巳成金大祭(例年9月の2回目又は3回目の巳の日)のみ開扉をして、早朝より多くの方にご参拝頂いております。

辯天さまのご利益として有名なのは、芸事の上達や、弁才天の¨才¨が¨財¨にも通ずることから、財産、つまり金運上昇のご利益もあるとされており、実際に当山の辯天さまはその八本の腕のひとつに(宝物の)カギを持っていらっしゃいます。
また頭上には「宇賀神(うがじん)」と呼ばれる人面蛇身の神を乗せており、豊穣をもたらすとも言われております。

太平洋戦争の戦火によりお堂が焼失してしまい、現在のお堂は昭和33年に鉄筋コンクリートで復興されたものです。
参拝者のいる外陣と仏間である内陣を繋ぐ天井には、芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が昭和41年に奉納され、お堂の格式を高めると共に参拝者の目を楽しませています。
ちなみに、その大きさから天井絵に目が行きがちですが、内陣左右にある春秋の杉戸も児玉画伯一門による作で、とても見事ですので是非ご覧下さい。

このように辯天堂は様々なご縁とご利益に満ちております。どうぞ皆さまのご参拝をお待ちしております。

東叡山寛永寺 教化部