10月のおはなし ~寛永寺 その④~

先月のおはなしでお伝えした通り、今月は東照宮について触れたいと思います。

そもそも「東照宮」とはどんな場所か。一言で説明すると「神社」です。
こう言うと、東照宮って神社なの?!と驚かれる方が多いのですが、それには「東照宮(とうしょうぐう)」という名前も少なからず関係しています。

現在、日本国内には10万社前後の神社があると言われており、その中で東照宮は約130社。
東照宮以外の多くは「〇〇神宮」・「〇〇大社」・「○○神社」という名前の神社がほとんどですので、「神」も「社」も付いていない東照宮が神社と思えないもの頷けるでしょう。

さて、ではなぜ東照宮だけ特別なのでしょうか。

神社ですから「神様」をお祀りしている訳で、東照宮に祀られる神様は「東照大権現」さまです。
実はこの東照大権現(とうしょうだいごんげん)という神様、もともとは德川家康公でした。

元和2年4月17日、駿府城において德川家康公が75歳でご逝去されると、江戸幕府の首脳陣は遺言に従って久能山で葬儀を執行し、ご遺体を埋葬します。
その後、家康公の遺徳を称えるべく朝廷に神号(しんごう)の宣下(せんげ)を奏請します。
分かりやすく言えば、家康公を神様として祀ることを天皇陛下にお許し頂き、さらに神様としての名前も付けて頂くのですが、その際に幕府内で意見が分かれます。

金地院崇伝(こんちいん すうでん)をはじめとした幕閣の多くは、「唯一神道(ゆいいつしんとう)」による「明神(みょうじん)」号での祭祀(さいし)を主張。
対して天海僧正は「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を根拠とした「権現(ごんげん)」号で祀るべきと譲りませんでした。

山王一実神道とは、天台宗に伝わる神仏習合(しんぶつしゅうごう)思想である「山王神道(さんのうしんとう)」を基に天海僧正が集大成させた神道であるとされ、「権現」とは仮に現れることを意味し、仏が衆生(しゅじょう)を救うため、あえて人間に分かりやすい姿で顕現(けんげん)することをいいます。

論争の中で崇伝は「なぜ明神が悪く権現ならば良いのか」と尋ね、天海僧正はただ、「豊国(とよくに)大明神を見たらよい」と答え、この一言が決定打になったと伝えられています。

折しも大坂の陣によって豊臣家は滅亡、豊国大明神の神号が剥奪された翌年のことであり、同じ末路を連想することを忌避(きひ)したと考えれば、現代の我々にも理解しやすいでしょう。
なお、豊国大明神=豊臣秀吉を祀る神社は「豊国神社(とよくにじんじゃ)」ですので、もしも家康公が明神号で祭祀されていたならば、東照宮も現在とは別の名前で呼ばれていたかもしれませんね。

東叡山寛永寺 教化部