開山堂は、東叡山寛永寺の開山である慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正と、天海大僧正が尊崇していた慈恵大師(じえだいし)良源(りょうげん)大僧正をお祀りするお堂で、現在のお堂は平成5(1993)年に再建されたものです。
もともとの創建は正保元(1644)年で、前年に亡くなられた天海大僧正を祀る「開山堂(かいさんどう)」でしたが、後に寛永寺本坊内にあった慈恵堂(じえどう)から慈恵大師像を移し、慈恵・慈眼のお二人のお大師をお祀りしたことから一般に“両大師(りょうだいし)”と呼ばれ、庶民に信仰されています。




慈眼大師天海大僧正(1536~1643)は、東叡山寛永寺を開山された天台宗の僧侶です。ご出身は陸奥国大沼郡高田(現在の福島県会津美里町)で、豪族の蘆名一族の出身といわれています。11歳で得度されて随風(ずいふう)と名乗り、後に川越喜多院の名僧豪海(ごうかい)の門下に入り天海と名を改めました。
天海大僧正が世に広く知られるようになったのは、織田信長による焼き討ちで荒廃した比叡山延暦寺の復興を命ぜられてからです。天海大僧正は現在の根本中堂をはじめ数々の堂宇を再建されました。
また天海大僧正は、寛永寺を創建するにあたって德川家の祈祷寺としましたが、その造営はすべて比叡山延暦寺に倣って行いました。また上野の山を江戸庶民の憩いの場とするべく、吉野の桜を取り寄せて上野の山を桜の名所とし、また不忍池には蓮を植えて放生池としました。
一方天海大僧正は、木活字を用いて経典を出版するという一大事業を行い、その木活字は重要文化財に指定されています。こうした生前の数々の功績が讃えられ、朝廷より「慈眼大師」の大師号が下賜されました。




慈恵大師良源大僧正(912~985)は、天海大僧正が尊崇した僧侶です。良源大僧正は正月3日に亡くなられたことから「元三(がんざん)大師」とも呼ばれています。
良源大僧正の当時、比叡山は度重なる火災で荒廃し、また山内の規律も乱れていました。そこで良源大僧正は堂宇の復興と教学の振興に尽力され、僧風の刷新をはかりました。こうしたことから「比叡山中興の祖」と称賛されています。
また大変に霊力に優れた僧侶であったことから、良源大僧正のお姿を護符にした「角大師(つのだいし)」「豆大師(まめだいし)」という魔除けの大師が広く信仰されました。さらに良源大僧正は「おみくじ」の創始者としても知られています。良源大僧正の幅広い活躍に対し、朝廷より「慈恵大師」の大師号が下賜されました。




伝説によると、德川家康公の墓所を静岡県の久能山に造営した天海大僧正の夢に良源大僧正が現れ、戸隠山の神前にあるくじを引くことで吉凶を占うことができる、と告げたそうです。ここから天海大僧正が慈恵大師信仰を広めるようになったと言われています。
特に、德川家光公の世継出生祈願を命じられた天海大僧正は、慈恵大師のお姿を安置してご祈祷を行いました。そこで誕生したのが、後に四代将軍となる家綱公だったのです。こうして慈恵大師の霊力は、天海大僧正のご祈祷を通じることで将軍以下誰もが知ることになってゆきました。
ところで天海大僧正が亡くなった後、両大師の画像が1ヶ月ずつ寛永寺の子院をめぐることが幕末まで行われました。この画像は10月1日に両大師に戻り、10月2日の天海大僧正の命日には、本坊から輪王寺宮が輿(こし)に乗り一山住職とともに盛大なお練りを行う大法要が営まれました。ここには見物の江戸庶民が大変に多く集まったとの記録があります。




開催日行事名開催場所
毎月3日 午前10時ご縁日法要開山堂(両大師)
2月3日 午後2時節分会(令和3年は2月2日の午後2時執行)開山堂(両大師)
4月13日 午前10時虚空蔵会開山堂(両大師)
10月2日 午前10時開山会(慈眼大師御祥月忌)開山堂(両大師)
毎月第3土曜日 午後2時写経会(現在休止中)開山堂(両大師)




開山堂(両大師)へお越しの方は


開門時間・閉門時間 : 午前8時〜午後4時